前の考察で、落語や演劇なのど演者が観客へ言 葉を発する際の演者と観客の位置関係を、演者が演劇的仮面を被っているか否か の視点を使用して分類してみた。今回は、同じく演劇的仮面の利用の視点から、 歌(コンサート)と演劇と演芸の類似と相違を整理して、エンターテイメントの 1つのパターンを示してみたい。
今回使用する表記方程式を簡単に説明しよう。これは野村 *1の方法を改造したもので、まず、 演者をP、客をQとする。演者について演劇的仮面を被った状態を添字p、仮面 を被らない状態、すなわち素の落語家である状態を添字uで示し、仮面の内容を ( )内に、例えば登場人物をxやy、ナレーターをnなどとして示す。
そうすると例えば落語の発話構造は以下のように表せることになる。
通常、演劇の演者は常にPpの状態であり、落語の演者は、 Ppの状態とPuの状態との間を往復している。(これを Pp<=>Puと表記しよう。)
それでは歌を演劇の視点で見るとどうだろう。歌手は歌で自分ではない誰か を演じ、聴き手を日常と違う物語に引きづりこんでいる。実際、演劇のようであ る。
また、歌っている歌手は、日常会話と違う発声をしている。メロディが付い ているのだから当然だが、それ以上に響きや艶なども大事な要素である。 一方、演劇も、演劇的な発声について役者はよく、「身体を楽器にする」と表現 している。演劇の発声は日常会話とは実は違っていて、音楽と同じく響きなども 大きな要素として含んでいる。
つまり歌っている歌手は、演技をしている役者と極めて相似形なのである。
日本の歌舞伎や文楽などでは謡(うたい)が重要な要素だし、ミュージカルや オペラを考えれば、歌と演劇はかなり近いものであろう。
歌を歌っている歌手は Pp(歌)→Q の状態であると言っていいだろ う。
余談であるが、世界中どこにでも近代的になる以前の演劇にミュージカルっ ぽいものが多数あることや、音楽の授業は小学生からあるが演劇の授業はないこ となどから推定して、「演劇的メソッド」としては、音楽が、いわゆる演劇より 先行して存在していた原初的なモノだったのではないかと個人的には考えている。
いわゆる歌手の歌謡ショーは、歌と歌手のお話で成り立っている。70年代の フォーク歌手に端を発するコンサートは、同じく歌と話から成り立つが、話にや や重心が移動し、話の名称もMCと呼ばれるようになった。
歌はPp(歌)→Q、MCは当然 Pu→Q である から、コンサートの
歌<=>MC
という構成は
Pp<=>Pu
と見做せて、落語の
(対話、独白、地・ナレーション)<=>観客への話かけ
と類似の構造であることが判る。
してみればコンサートのMCの名手と呼ばれるさだまさしが、落研出身なのは 象徴的な話である。
逆に、例えばMCの時も演劇的仮面を外さない聖飢魔IIのデーモン小暮が、入 院時に仮面を外した姿を曝露されることが繰り返しエンターテイメントになって いるが、これは Pp(歌、 MC)<=>Pu (Puは素の小暮)という運動が笑いを呼ぶ ということが説明ができる。
以上より、Pp<=>Puとう構成はコンサートから落語ま で通用するエンターテイメントの1つのフォーマットであること、音楽は演劇的 仮面の1つで、上式のPpにはまり得るアイテムであることが判った。 *2
これは多分、音曲漫才とシャベクリ漫才との相違と類似を上手く説明するフォー マットとなるであろうことが推測できる。また、ネタをやらずに歌ばかり歌う川 柳川柳の落語もフォーマット的には正統なものであることがわかる。
この考え方をキーにすると、落語の中の謡の位置付け、桂文福のバラエティ ショー落語の評価、音曲漫才のルネサンスなどができるのではないかと思ってい るところである。
(2003-08-30)
*1 ,野村雅昭,『落語の言語学』,平凡社ライブラリー,平凡社,2002
*2 ,ミュージカルも
Pp(Pp(歌)<=>x)という形で表わせるのではないかと推測
してるのだが、本題ではないので指摘しておくに留める。