落語の要素で 落語は「台本」「演技」「交流」の3要素からなると分析した。 本章ではそのうちの「演技」の面に着目して、他の演芸、特に演劇との 比較を通じて落語の特徴を考えてみたい。
落語はよく独り芝居と比喩されるが、 落語と独り芝居(演劇)の類似点と相異点は何だろうか。
どちらも話中/劇中の登場人物に、直接話法で成り切って演じる点では良く似ている。 一方、服装も立振舞いも道具も自由度の高い演劇に比べて、 落語は、原則として和服で動作も座ったまま行うなど制限が多いのは一見して判る 特徴である。 これらの演技上の制限が落語にどういう効果と限界と可能性とを もたらしているか見ていこう。
落語も演劇も、登場人物に成り切って演じる点では同じである。
ただし、演劇は登場人物に100%感情移入し、 特に近代演劇ではその人格を全てシュミレー トして、その人と同一化することを目指しているが、 落語の演技は登場人物に対して6、7割の感情移入に止め、 常に語り手としての意識を残している。
これがどのような効果を産んでいるか。
まず考えられるのが、人物転換の速さである。
演劇では登場人物と同一化する故に、演者の人物転換は普通はおこなわれない。 独り芝居などでやむをえず人物転換を行なう場合には、 通常、不自然な動作(ぐるっと一回転するとか)や、 暗転、衣裳変えなどを狭んで一旦芝居を切らないと人物転換できない。
それに対して、落語では驚異的なまでに人物転換が速い。 2人の登場人物の間をそれこそワン・センテンス毎に往復することも可能で、 3人以上の人物間の移動も容易である。 この人物転換の速さを可能にしている要素の1つが、 この登場人物への過度の没入を意識的に避ける演技であると思われる。
この落語的役づくりは、 既に多くの者から指摘されている落語の欠点の1つ、 登場人物の内面に深みが出せない、 内面を描けないことと相互に関連している。 落語が隆盛だった江戸時代〜昭和初期は未だ個人の内面を描く ことが一般的ではなかったという時代背景もあってか、落語の登場人物は社会の 矛盾などに深く悩むこともせず、どんどん行動で噺を進めるのである。 勢い演技が内面を描かない/描けないものとなったことは想像に難くない。
ただし落語でも演技によって登場人物に没入して内面を描くことは可能である。
だが落語で内面を深く描いた場合、内面 を描くことを想定していない噺の内容と齟齬をきたすことがある。
例えば立川談志の、登場人物の内面に入りこんで 客をグッと引き付ける演技は、師の演技力に支えられて非常に素晴しい演劇 空間を作りだしているが、他方で落語でよくあるシャレでサゲての「この話は嘘 でした」落ち にはそぐわなくなってきている 例えれば、ハードSFのラストが夢オチみたいなものである。 談志が高座でしばしば述べるサゲへの違和感はこれであろう。
これらにはサゲを実話噺風のサゲや、日常生活にソフトランディングする 演劇のようなラストに改変することでも対応は可能だろうが、ネタの構成自体を も考える必要がでてくるのかもしれない。
演劇は大道具・小道具についてはなんでもありであるのに対し、落語は扇子と手 拭いのみ(上方落語ではこれに見台と小拍子がつくことがある。)で、 全ての文物を表現する。
当然、リアリズムでは落語は演劇には全くかなわない。 だが、落語は「見立て」という技法で客の想像力を刺激することで、 本物の道具を使う以上のリアリティを醸しだしている。 演劇に『本物より偽物の方が本物らしい』という有名な セオリーがあるように、 ニセの道具で客の想像力を刺激することで、 かえってリアリティが出ることは、不自然なことではない。 落語家自身も、客の想像力を利用することには 自覚的であり、例えば背景の屏風は無地にするなど、想像力を妨げないような工夫 が、そこここになされている。
客の想像力を活用することは、ありえないものも現出することをも可能にする。 「あたま山」や「悋気の火の玉」の火の玉、「地獄八景」などで、不思議な情景 が現前するのが感じられるだろう。場面の転換もあっという間だ。 落語以上に道具を使わないパントマイム芸人などは、 あっというまに直径10m以上に膨らんだ風船に押し潰されたり、2m以上あ るような大剣を呑み込む手品でも、軽やかにやってのける。
それでは、 落語で具体的な道具を使うとどうなるか。 余り良いコトは無さそうだが考えてみよう。 実際、扇子と手拭い以外の具体的な道具を使う落語も無いことは無い。 怪談噺でサゲに火の玉を飛し、白装束の前座が飛び出してくることがある。 が、このように大道具を出すとそこで場面転換は止まる。サゲ以外には 使わないのが無難だろう。
小道具も見立てで演技する部分と齟齬を生じかねない。 道具を総べて具体化するまで徹底するか、 象徴的な意味があって 見立てでは出ないコトをするなどの積極的な点が無い限りは 使用は避けるべきなのだろう。
落語の動作には非常に厳しい制限がかけられている。 動作は舞台の中央の座布団 に座ったままで、正面を向いたまま行われなければならない。伝統的な落語では 中腰になることも後向きになることも許されない。
これではダイナミックな動きは全くといっていいほどできない。 立ち、座り、舞台の端から端まで走り、宙返りすることすらできる演劇と比べると、 極めて厳しい制限であるといえる。
落語は当初、座敷芸として発生したため、このような厳しい制限が生じたのだと 思われるが、では、この落語の動作の様式・型について、現代の目で演劇等と比 べたときにどのような長所があるのだろうか。
とりあえず思いつく消極的な長所としては、 落語は話が中心であり動作は「さし絵」であるという考えの下、 動作に制限を設けることで客が話に集中するのを邪魔しないようにしているのでは ないだろうか。
例えば講談では、 弓を射る語りと同時に弓を射る仕草をするが、 動作は語りの補助であり極めて簡単な記号的な所作で語りを聞かせるのが中心である。 落語の動作もこれと同じ位置付けであることが考えられる。
また、能狂言において、例えば無駄な動きを省略した立っていることの表現「型」 には、次の動作を目立たさせる、省略と誇張という効果がある ことが知られている。 落語で、窮屈に座って 正面を向いて動作をすることにも同じ効果があるのではないだろうか。
常に座って動作するためにで、手先の小さな動きも強調されて客に伝わる。 常に正面を向いて動作するために、僅かに首を左右に振る (専門用語で「上下を振る」と言う。)だけで、 人物が 変わったことが客につたわる。 激しく動き回る独り芝居 では、ちょっと手が動いた程度では客には伝わらない。 漫談で2人を演じ分けるときなどは、 マイクを狭んで大きく首を回りこませないと人物が変ったことが客に伝わらない。
大げさな動作が特徴の立川談生の演技でも、正面を軸とした左右の微妙な違いの 演出ははっきり意識されていて、大きく倒れこむ動作が僅かに右向きか左向きか で、その動作をする人物が殿様なのか親方なのか妻なのかが客に自然と 伝わっている。
落語の動作は極めて窮屈に制限されているが、その制限のゆえに、話を引き立て、 小さな動作で大きな効果を得、それが内面や道具で述べたのと同じ落語の特徴である、 人物転換や場面転換の速さ、テンポを支えている。
落語の演技は、演劇と比べて制限が多いが、その制限は観客のイメージを 刺激し、場面転換や人物転換の速さを支える演出と密接に関連している ことが見えてきた。
落語を演じる際には落語的演出の意味を踏まえる必要がある。また落語 の様式・型を崩して新しい表現を求める時には、その変化が長所をどのように減 ずることになるかをも理解しておく必要がある。 そのため、まだまだ不十分ではあるがとりあえずの一里塚としてまとめてみた。
(2002-11-17)