落語を落語としてなりたたせる特徴は何か。
ちょっと考えると簡単そうである。 着物を着て扇子と手ぬぐいを持って座布団の上に座って いわゆる落語のネタをやるのが落語である。 だが、桂文治の 「源平拾い読み」は、ただ平家物語を読んで文治がウダウダ言っている だけなのに、ちゃんと落語という感じがする。 背広で立ち姿でマイクの前に立った桂小金治は落語じゃないのかといえば、 あれも落語である。歌と踊りの一人バラエティショー桂文福もどうみても 落語である。
落語を落語たらしめているものは何なのだろうか。
今回は「落語を特徴付ける要素はなにか」を他の演芸と比較することで 考えてみたい。
落語はよく独り芝居と比喩されるが、落語と独り芝居(演劇)の類似点と相異点は何だろ うか。 例えば志ん朝とイッセー尾形をイメージしてみてもよい。
両者とも台本の筋書きに沿って演技する演芸である。 演技という意味では両者は良く似ているかもしれない。独りで複数の出演者を 演じ分ける、話し方は直接話法で出演者に成り切るなどだ。
違う点は何処だろう。
例えば服装。演劇は服装は自由だが、落語は原則として和服に決まっている。 小道具、大道具類も同様だ。 動作は、演劇は自由に歩きまわるが、落語は座ったままで所作をおこなう。 ただしこれらは本質的な違いではない。例えば、はじめに述べた小金治は 背広姿で立ってちゃんと「落語」をしていた。演出に関する制限の程度の 問題なのだろう。
台本については、演劇は全て筋書きに沿って行われている が、 落語にはネタという筋書きの他に、マクラやネタの途中に挟まる余談など ネタに関係ない観客への話しかけが必ず含まれている。 観客への説明は、独り芝居は劇に入る前しかできない が、 落語はト書きも含めて全て独りでいつでも行うことができる。
この「観客への説明、話しかけ」が演劇と落語を分ける着目点であると考えられ ないだろうか。
落語は話芸として分類されている。 話芸には他に朗読や講談などがある。
前節で述べたト書やナレーションなど観客への説明で成り立っている。 この朗読や講談などの話芸と落語はどう類似/相違しているのか。
他の話芸と落語との相違は明白で、落語には「演技」がある。 特に仕草、動作系の演技が他の話芸にはないものである。声色などの 音声系の演技は、講談にやや見とめられるもののクドキ場では消滅するなど 本質的ではない。朗読ではそもそも声色を余り明白に演じ分けない。
では前節で触れた「観客への説明、話しかけ」はどうか。
朗読は、台本に決められた観客への説明は存在するが、それを越えた 「話しかけ」に相当するものはない 一方、講談にはト書などの説明の他に、落語と同様のマクラや余談などの 観客への 話しかけがある。
この出演者/ナレーターとしてではなく,素の落語家/講談師としての 観客への話しかけが、落語/講談を構成する要素ではないだろうか。
以上を荒っぽく纏めると、「台本」「演技」「観客へ話しかけ」の 3要素の観点で分類すると、落語と他の演芸との類似と差異がはっきりさ せられるということになる。
演劇は「台本、演技」で成り立ち、朗読は「台本」で成り立ち、講談は「台本、 観客への話しかけ」で成り立ち、落語は「台本、演技、観客への話しかけ」で 成り立つのである。
台本とは筋書き、ストーリーである。
客観的にモノゴトを表しており、朗読で述べた「説明」も これに含めて良い。演芸ではないが小説もこれのみで成り立っている 娯楽と考えてもよいかもしれない。
簡便のためこの要素を表す軸をS(script)軸と呼ぶこととする。
演技は、演者が表出するものである。
観客に対して直感的主観的ななにかを惹起させるもので、動作、声色、その他 諸々の演出を含んでいる。
S軸と同様に、この要素を表す軸をP(performance)軸と呼ぶこととする。
前述のとおり落語は観客へ話しかけることがある。
それは話の筋とは関係があったり無かったりするのだが、 演劇での観客への語りかけと違って、演劇空間を離れ、 演者としてでなく、素の語り手として観客へ話しかけている。
その話しかけによって観客と演者の関係は、 「観客が観る」→「演者が観られる」といった演劇の一方的な関係から、 「演者が話しかける」→「観客が話しかけられる」あるいは、 客の容姿をいじるような「演者が観る」→「観客が観られる」 といった相互に観る/観られるという関係に換えられてしまう。 これは観客との「交流」と言い換えてもいいだろう。
この要素を表す軸を、I(interactive)軸と呼ぶこととする。
この3要素を使うと、例えば演劇はS-P上の、朗読はS上の、 講談はS-I上の演芸であると言うことができ、 落語や漫才はS-P-I上の演芸であるということができる。
それでは他の組み合わせも見てみよう。 例えば純粋なP上の演芸は何だろうか。S-P平面は 演劇空間と言えるから、その中で客観的な説明がない純粋な 演技/演出であるので、暗黒舞踏などがそれにあたると思われる。
手品や紙きりなどの色物は、演技と観客との交流から成り立つので P-I上の演劇と分類できる。
では純粋なI軸上の演芸とはなんだろうか。
演劇空間から離れ観客との交流のみで成り立つ演芸、 例えばTVのバラエティの司会などがそれに当たるのではないだろうか。
落語自身においてI軸=「交流」はどう評価されてるだろうか。
古今亭志ん生の全盛時を表す表現に「志ん生が高座に座って茶を飲んで いるだけで客は満足した」という伝説がある。真偽はともかく、 芸だけではくくれない、観客との交流、一体感が評価されたと示す言葉では ないだろうか。
桂枝雀は「高座でボーっと座って、時々ニコッとするだけで客が満足する ような」落語家を目指していた。これも同じものを目指していたとしか 思えない。
落語では「間」が大事だと言われる。演技の空白や時間の取りかたを 指すといわれているが、一方で「間」は座敷芸者の世界では 客との距離感を示す言葉 である。観客との距離感をはかる 相互交流もまちがいなく「間」であろう。
これらをみると、このI軸は落語のエッセンスと言える というと自画自賛に過ぎるだろうか。
ただ一方では「客いじりは芸を荒らす」という箴言も存在する。 I軸に頼り過ぎS-Pで表される演劇的な要素(=芸)が おろそかになることを戒めたものではないだろうか。 TVバラエティ芸人が芸無しと批評されるのと軌を一に する言葉で、 例えれば、グルタミン酸は旨味のエッセンス だがグルタミン酸だけに頼ると平板な味で飽きも早く 身体に良くないのと、同じことだ。
S-P-Iのバランスが落語の「味」を深くするのである。
落語の衰退がいわれて久しい。古典落語を研究する者は 落語のネタの分析や演技の評価に熱心だが、 それでは演劇と変わりないのではないか。 高座の落語にはそれ以外の要素があるという思いがこの論を まとめるきっかけであった。
思いがけずTVバラエティとの関係も見えてきた。 TVバラエティの隆盛期になぜ落語家がもてはやされ、 その後なぜ「芸のない」バラエティ芸人に取って代られたかが、 この論を読んだあとには腑に落ちることであろう。
とまれ落語は静的なネタと演技だけの芸でなく、 観客と動的な交流を結ぶ大道演芸であると、 文福のバラエティ落語は邪道に見えて落語の本質を捕まえた 行為なのだと理解いただけただろうか。
(2002-8-16)