落語の特徴について、これまで何度か論じてきたところであるが、 今回は、噺家の視線の使い方に着目する。
結論から言うと、 「落語は、客と視線を合わせ続けながら話しかける芸である。」 と言えることが分かった。 客に話しかけていることを常に視線で意識させるという意味で、 落語は一人芝居ではなく話芸である。また他の話芸と比しても落語は特に入念に客と視線を合わせている。
それでは、それは具体的にどのようであるか、以下、順次述べてみよう。
落語の時の噺家の視線の使い方を、 マエフリ、マクラ、本題、サゲ*1 の4つに分けて説明する。
まず、マエフリの時、噺家は視線を会場の隅から隅まで、手前から奥まで大きく見回す。 人によっては、顔を上下左右に激しく動かすこともある。*2 そして会場中の総ての客と視線を合わせ、総ての客に視線が合ったように思わせる。
マクラの時は、マエフリの時ほど激しくはないものの、端から端まで視線を配りながら噺家ははなしを続ける。 例えば三遊亭好樂は向って右からゆっくりと左へワイパーのように顏を回し、また右へ戻るという仕草をマクラの間中続けている。 また笑福亭鶴光は、向って左→正面→右→左→正面→右と繰り返す。歌丸にしろ樂太郎にしろ、それぞれやり方は違うが、隅から隅まで視線を配りつづけている。
では落語の本題に入るとどうなるか。
本題には、以前分析したとおり、1.登場人物を演じる 2.地の話(ナレーション) 3.客への話しかけがある。
まず登場人物を演じる時、噺家の視線は正面からやや下、客に向いている。 上下を振る時も、右前左前の客に視線を合わせて、演じている。
地の話と客への話しかけの時、基本的に噺家はマクラと同じように視線を動かす。 ただし、講談のようにたたみかけるような地の話の時は正面を向いたまま話すことが多く、 また、マクラの時よりも更に小さな所作で視線を配る噺家も少なくない。*3
サゲに入ると、噺家の視線は客からは切れて正面の宙に向かい、場合によっては頭を下げ完全に視線をはずしながらサゲの言葉を話す。 まるで視線からも、もうあなたへの話は終わりましたと告げるように。
それではこの噺家の視線の使い方は、他の演芸とどのように違うだろうか。 ざっとみてみよう。
まず手品や紙きりなどの演芸は、正に客と会話することで芸が成り立っており、視線も客に向けて会話が進められている。 落語も演芸の1つであり、その他の演芸と変わりはないのだろう。
演劇の場合は、セリフは通常、横にいる演者(一人芝居の場合は架空の演者)の 方を向いて話しかける(水平の演技)。 観客はそれを第3者の立場で眺めている。 演者の視線は別の演者を向き、観客と目を合わせない。
時には演者が観客の方を向いてセリフを投げかけることがある(鉛直の演技)。 これには観客をある演者に見立てている場合、ひとりごとの場合、ナレーションの場合などがある。 最初の場合では観客を見つめることがある。後2つの場合はたいてい視線は観客よりやや上をみている。
歌手は観客の方を向いて歌うが、演劇のひとりごとの時のように視線は固定してやや宙に浮いている。 歌っている時も観客を隅から隅までしっかりみる歌手としては、三波春夫と橋幸夫くらいしか思い浮かばない。
講談師は、セリフの時は落語と同じく上下を振るが、地話りの時は正面をすっくと向いて朗々と宙に歌い上げる。 落語が話しかける芸であるのに比して、講談は聞かせる芸であると言えるのではないだろうか。
漫才師は話芸であるとともに、演劇の要素がとりこまれており、 いくつかのパターンがある。これらについては稿を改めて述べたい。
最後に下手な落語家の場合、 大学の落研や、前座の場合の典型として、マエフリ、マクラ、地の話の時に、 正面を向いたまま話しがちである。また視線は往々にして宙に浮いている。 話芸ではなく暗誦芸のようである。 また上下を振る時に、顔は右前左前を向いているが、視線が客席ではなく真横に向いてしまうことが多い。 これをすると演劇の例から分かる通り、噺家ではなく噺家を演ずる人に見えてしまう。
落語は、他の演芸と同じく客に話しかける話芸でである。 また、演技をする時には、演劇と違い、常に客に語りかける演技をしており、それは地語りの時も同じである。
演劇のように見せる芸でも、講談や歌手のように聞かせる芸でもなく、 客に常に話しかけることが落語の本質の1つであり、 それがゆえに落語家は常に客席の隅々まで念入りに客と視線を合せ続けるのではないか、 というのが今回のまとめである。
(2006-11-25)
*1 野村雅昭(『落語の言語学』,平凡社ライブラリー,平凡社,2002)の分類による。
*2 笑福亭鶴光、立川談笑など
*3 笑福亭仁鶴など