このサイトでは、これまで落語を中心に笑芸のスタイルを語る述語を探して、 サゲのパターンや歴史について述べてきたことろである。
ところで、笑芸のもう一方の雄「漫才」に関しては、芸やスタイルを語る言 葉を、その即興性の為か落語以上に持ってこなかったように思える。そこで今回 は漫才の型について、大まかな変遷を中心に浅学ながら書き留めてみたい。
ただし、門付や三河漫才、エンタツアチャコのシャベクリ漫才の源泉までは 遡らず、いわゆる80年代の漫才ブームの直前から始めることとする。
漫才の型を語る場合にボケとツッコミについて避けて通るわけにはいかない。
ボケとツッコミは現時点において唯一、漫才のスタイルを表わす述語である。 にもかかわらず、定義があいまいで、それぞれの思い入れにより語られることが、 漫才を巡る言説に混乱を生みだしている。古典的なイメージでは、ボケはとぼけ たこと/間違ったこと/変なことを言う役、ツッコミはボケの言うことを訂正して 正しいことを言う役で、漫才の役割を2分割する言葉として 捉えられているが、このイメージでは、例えば、夢路いとしのボケたツッコミ 「君の家には犀が居るのかね」を、どう表現するかで既に混乱してしまうのであ る。
そこでちょっと強引にボケとツッコミについてここで再定義をすることで議 論を整理してみよう。その定義が正しいかどうかは、議論の要素として使いやす いかどうかで判断されることになろう。
ボケは「とぼけたこと/間違ったこと/変なことを言う」ことである。即ち内 容が本質なのだ。そこで「ボケ」については「非常識な発言」という定義として みよう。そうすると対比される概念は「常識的な発言」となる。これを「常識」 と表記する。
「ボケ」<=>「常識」を1つの軸と考えてみる。
ツッコミは「相手の言うことを訂正して正しいことを言う」ことだが、ここ では「相手を訂正する」行為に着目し、内容は無視して、「相手の話題に棹をさ す行為」を「ツッコミ」と定義してみよう。対比される概念は、棹を差される 「話題の提示」とでもなるであろうか。これを「話題」と表記する。
「話題」<=>「ツッコミ」をもう1つの軸と考えてみる。
そうすると、これらの組合せで「ボケた話題」「常識なツッコミ」「常識な 話題」「ボケたツッコミ」の4つの述語がとりあえず用意できた。これを使って 漫才の型について述べてみよう。
いわゆる1980年に端を発する漫才ブームの前の漫才を見てみよう。
スタイルとして判りやすい人生航朗・行恵幸子のボヤキ漫才をまず挙げてみ る。
航朗が「『川は流れる橋の下』だと。当り前のことを言うな!川が 橋の上を流れるかあ!責任者でてこーい」と非常識な怒りを発し、幸子が「あん た言いすぎやがな」と常識で諫めて、航朗が「ごめんちゃーい」と収めて終る。
航朗が「ボケた話題」で幸子が「常識なツッコミ」であり、このパターンは 最後まで変化しないのが人生航朗・行恵幸子の漫才であった。
それでは夢路いとし喜味こいしはどうだろう。
基本は、いとし*1が 話題を変な方向に踏みはずし、こいし*2がなんやそれはとツッコむ型が多い。
こいし「歳は」
いとし「とうねんとって28歳」
こいし「それは若いなあ」
いとし「十年取ってますから」
こいし「そんなもん取るな」
(交通巡査*3)
これは、いとしが「ボケた話題」でこいしが「常識なツッコミ」の型である。
いとしこいしには、もう1つスタイルがある。
こいし「うちの妻(サイ)がな」
いとし「きみん家は動物園か」
こいし「なんじゃそれは」
いとし「いまうちの犀(サイ)がっていったがな」
こいし「そのサイと違う」
これは、こいしの「常識な話題」にいとしが「ボケたツッコミ」を入れる型 である。
いとしこいしの漫才はこの2つの型が組合わさって構成されているが、通底す るのは、いとしが「ボケ=非常識」でこいしが「常識」である。そして夢路いと しの非常識が、常識はずれなくらいとんでもないこと*4が、笑いを非常に大きなも のにしている。
オール阪神巨人の漫才の型も、いとしこいしに似ていて、阪神が「常識」を 語り、巨人が「ボケ=非常識」を語りながら、互いの話にツッコミを入れあって いる。
いわゆる1980年頃の漫才ブームを特徴付ける漫才師は、ツービート、紳助竜 介、B&Bの3組だったと思う。人気があったというだけでなく、漫才ブームの 間でのみ存在したという理由で。
ツービートは、ビートたけしがツッコミできよしがボケ、紳助竜介は紳助が ツッコミで竜介がボケとよく言われているが、厳密に言えば逆である。
たけし「赤信号みんなでわたれば恐くない」
きよし「やめなさい、そんなこというの」
ここでたけしは、非常識なことを言っておりボケである。そしてそれをきよ しが常識で訂正(ツッコミ)している。紳助は暴論を吐き、竜介がそれを常識で諫 める。だから、たけしや紳助がボケなのである
ただし、あのときの私を含む観客は、たけしや紳助の非常識な暴論を、時代 にツッコム「本音の正論=新しい常識」とし、きよしや竜介を、時代についてこ れず昔の常識にとらわれれ間違っている「ボケ」と見做した。
B&Bの洋八の言動に至っては、非常識な暴論で洋七を振り回して騙す洋八 のやったもん勝ちで、騙される洋七の方が悪いようなネタである。人生航朗が暴 論の最後に「ごめんちゃーい」と謝ったのとは対照的である。
暴論が正論となるような異常な社会状況が、非常識と常識、ボケとツッコミ が捻じれるような混乱を生じ、その捻れのエネルギーが件の漫才ブームを産んだ のではないかと、今から振り返ると思えるのである。
同じような暴論型でも、のりおよしおは、のりおが言っていることが明かに 間違いなので、のりおがボケのままであり、こちらが逆転が起きなかった。人生 航朗・行恵幸子みたいなものだ。
面白いのが、「非常識=新しい常識」でツッコむ、たけしや紳助は、自分の非 常識が世間の常識になってしまった時点で、自分に対する「常識なツッコミ」が 不要になり、すぐに解散してしまったことだ。そして自分が「常識なツッコミ」 になり、素人やテレビの非常識にツッコム役に皆がなっている。「あの時代の漫 才」は「あの常識と非常識が混乱した時代」でなければ成立してないものだった のだ。
この常識/非常識の混乱が、新しい漫才を生むエネルギーにもなり、型が見え にくくなった漫才の低迷の原因ともなったと、私は考えている。
いわゆる漫才ブームの後のメルクマールの1つとして、ダウンタウンの漫才が ある。ダウンタウンは1990年前後を中心に漫才で活躍し、同時に現在までコント やバラエティで活躍している。
1995年に発売されたビデオ*5で、ダウンタウンの漫才を確認してみた。
改めて確認して判ったのが、ダウンタウンの漫才のスタイルの幅の広さである。
1つの漫才の中で
の4パターンを折り込んでいる上に完成度の高い漫才芝居が付いてくる。
特徴的なパターンは2と3で、パターン2では以下のような例がある。
(アニメ妖怪人間の話題で)
松本「ベロがごめん僕人間じゃないんだって言うねん」
松本・浜田「そんなん見ただけで判るやろ」
パターン4でも、松本のツッコミはボケ=非常識と常識の微妙なハザマでなされている。
浜田「カモシカのような脚」
松本「カモシカの脚のような脚やろ」
浜田「超能力でスプーンを折りますよね」
松本「そんなことしたらスプーン屋さんに悪いやろ」
この2例とも、松本のツッコミは非常識でもあり、厳格に適用しすぎる常識でもある。
ダウンタウンの漫才は、このように多数のパターンを持ち、ボケも固定されない変幻自在な漫才だったのである。
余談であるが、漫才芝居に入ると松本がシュールにボケて浜田が常識でツッ コム型のみになる。ただし、浜田は、芝居から抜けずに登場人物のままでツッコ むため、漫才芝居がよりコントに近くなり、松本に浜田が追い詰められるように なる。その緊張感が漫才芝居を盛り上げていた。だから、90年代後半のテレビの ダウンタウンが、漫才からコントに重心を移し、かつ成功したのは、その漫才芝 居の時から、その萌芽があるのである
とりあえず、不十分ながらも、ボケと常識、ツッコミをキーワードに80年代 から90年代の漫才の代表的スタイルについて言及してみた。ダウンタウンの漫才 も総括すれば多様な型だが、その1つ1つは、このキーワードで意味付けられるも のであった。
近年、やや低調であるが、笑い飯のような新しい型の漫才を模索する動きは、 まだまだ盛んである。この漫才の分析が、それらの模索や批評の一助になれば幸 いである。
(2004-08-29)
*1 向って右
*2 向って左
*3 大宝企画,『いとこいわーるど』、
http://www.taihoukikaku.co.jp/itokoi
*4 夢路いとしの趣味が読書(SF小
説)なのと多分、関係があるのだろう。
*5 ダウンタウン,『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで1 幻の傑作漫才集part1
『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで2 幻の傑作漫才集part2』