『江戸の想像力』を落語の目で見る

[Last up date: 06/01/12]
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『江戸の想像力』を落語の目で見る

はじめに

落語という形態は、歴史的には口承文芸の1つとして発展してきたものだが、 空間的には近世の江戸の文化の網の目の中で揺籃されたものである。であるから 落語について考えるとき、近世江戸文化における位置付けを視野に入れることが 大事であることは言を待たない。

表題の『江戸の想像力』*1は、 田中優子が江戸の近世の文化について、平賀源内と上田秋成をキーワードに論じ たもので、歴史的な視野にあわせて、東洋の中の江戸、大航海時代の世界の中の 江戸といった空間的にも広い視野を持った優れた評論である。

今回はこの『江戸の想像力』をテクスト*2 にして、揺籃期の落語の姿を拾いな がら、落語の背景を整理してみたい。

俳諧の連

江戸文化を代表するものとして、俳諧がある。「俳諧」は古代から和歌の滑 稽の側面をにない十六世紀に「俳諧」というジャンルとして独立したものである。 *3 俳諧は、後世の俳句と違い基本は連句(俳諧連歌)であった。複数の者が同時、同 空間に集り作成される。芭蕉などはこの連句の座のリーダーとして名を成したの だ。

連句の構造は、個々の句は、直前の句と繋がるように作るが、それ以前の句 とはイメージが離れるように作るのが良いとされる。*4 だから鑑賞のしかたは2句 づつ独立して味わいながら移動し、そのイメージの変化を楽しむという風なのだ ろう。まるで順路に沿って進みながら連続する視点によって変る風景を楽しむ回 遊式日本庭園のようである。このフォルムは実は近世に通底する「連」という構 造/方法なのである。*5

それはさておき、俳諧にはもう1つ前句付というサブジャンルが存在する。前 句付けは現代の大喜利でも行われるのでご存知の方も多いかもしれないが、例え ば七七の短句が出題され、それに五七五の長句を付け、点数を付けて競技するゲー ムのことである。前句付の他にも「ものは付」「冠付」「折句付」など多種多様 なルールが生まれ(雑俳と称される*6 )、参加者は全国へ広まった。これら参加者の 投稿作品を評価者(点者という)に取り次ぐ全国ネットワークが生まれ「組連」と 呼ばれた。

江戸落語の発生

1774年頃、上方の雑俳ネットワークの中で「咄」が集められだした。滑稽な 俳諧の新種として滑稽な咄が収集されはじめたのだ。1776年、江戸の狂歌師が、 京都へ滞在したおりに、この「咄」という概念を身に付け、江戸に帰ってくる。 これが江戸小咄の始まりとなる。

そして1783年4月25日、江戸の狂歌師、竹杖為軽(たけつえのすがる)が「宝合 わせの会」を開催した。何か物を持ち寄って、なぜこれが宝かを列席者に納得さ せる屁理屈の弁論大会で、優秀なものはまとめて本にして出版するという馬鹿な 企画である。

この会に出席したある大工の棟梁の弁論があまりにすばらしく「太平楽記文」 という1冊の独立した本として出版されることとなった。この棟梁が江戸落語の 祖、烏亭焉馬であり、3年後の1786年4月12日に向島の武蔵屋で連の狂歌師を集め て第1回の「咄の会」を開くことになるのである。

おわりに

以上、少し長いが落語の発生と連のかかわりをテクストから抜き書きしてみ た。

簡単にまとめると、江戸落語は連というサロンの、俳諧ゲームというフレー ムから発生してきたということである。

現代の、例えば唐澤俊一をキーワードとするサロン(と敢えて呼ぼう)に出入 りする、立川流の落語家が落語に限らない活動を行なっているのと相似形なのだ ろう。

また、連の文化として、全体の構成より視点の移動による変化を楽しむ特徴 がある。これは落語のネタとして全体の矛盾を気にせず部分部分で疾走するも のがあることと関係ある気がする。この点は日本の物語全体の構造的特 徴とも関連する問題として今後の課題の1つとしたい。

また、『江戸の想像力』にはこの他に、中国の説話人と日本の講談、落語の 関係を論じているが、この部分の整理は、また次の機会としたい。


*1 田中優子,『江戸の想像力』,ちくま学芸文庫,筑摩書房,1992
*2 原著は1986年に刊行されたが、今回はちくま文庫版を使用した。
*3 テクストp87
*4 水沢周,『連句で遊ぼう』,新曜社,1995
*5 テクストp91,99
*6 川柳や狂歌も雑俳の一種である。
(2003-05-05)


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