ある同人誌即売会*1 で拙論を購入いただいた方から、 「この考察には歴史的視点が欠けている」という御指摘を頂いた。 これまでの拙論はニューアカの頃に流行った構造主義的な分析手法を援用してい るので歴史的視点が欠けているという指摘は正鵠を射ている。 これからの落語はどう進む可能性があるのかを考える上で歴史的なものの味方 というのは当然必要となるであろう。
そこで今回は落語はどう進んで来たかを踏まえ今の笑芸と比較し、 今後の落語の可能性を考える一助としてみたい。
では落語はどのような経緯で現在に至ったか概観してみよう。 以下は 『落語藝談』(暉峻康隆)等から抜粋し年代順に編集したもの である。
室町時代の武家相手の御伽衆の咄が、 その後だんだん一般民衆の娯楽となっていった。 仕草や演技が伴わないそぼくな小咄であり 1600年前後には咄(はなし)という名で呼ばれていた。
これに仕形(しかた)とよばれる演技が加わったのが1650年頃。仕形咄やおどけ咄 と呼ばれるようになる。
天和(1681-1684)頃から職業的はなし家*4 が活躍し始める。 この頃は小咄を積み重ねて一席をつとめるのが一般的で、軽口や軽口ばなしと 呼ばれていた。
安永(1772-1781)、天明(1781-1789)期には江戸落語が全盛を迎え、 「おとしばなし」としておち(サゲ)が重んぜられるようになる。
寛政10年(1798) 桂文治(1)が大坂で、 三笑亭可楽(1)が江戸で寄席をはじめる。 この頃から小咄から長話となっていく。
文化(1804-1818)文政(1818-1830)期、 寄席が全盛となり噺家という職名が生れるようになる。 この頃は人情噺、怪談噺、芝居噺などの続きもので「おち」を必要としない 世話物長話が主流となり、 おとし噺は前座・二つ目咄とされた。
余談だが、この頃の芝居噺は人情噺の途中に鳴り物、声色がはいり、 衣裳が引き抜き、背景が 有り、小道具の使用など芝居がかった演出が行なわれていた。
明治10年(1876)前後、 三遊亭円朝、柳亭燕枝などのタレントを得て明治の落語は隆盛を迎える。 当然、人情噺や怪談噺など世話物長話がメインである。
明治20年(1886)前後、 「はなし」と呼ばれる人情噺、怪談噺、芝居噺などに対し、 笑いを専らとしたおとし咄を「らくご」と称するようになる。
この頃、円遊のステテコ踊り、三遊亭万橘のヘラヘラなどゲテモノ趣味が流行し、 真打ちの三遊亭円遊(1)、柳家小さんが本来前座噺のおとし噺をもっぱら演じて 好評を博した。*2
これ以降おとし噺も真打ちの芸となる。
また、おとし噺の隆盛に伴い、サゲの無い江戸人情噺のおとし噺への現代化が円遊 などにより進められた。
明治30年(1896)頃、 円朝、燕枝が亡くなり、日露戦争の不景気で 東京落語が壊滅状態になる。 危機感を持った落語家により 明治38年に第一次落語研究会が結成され、 落語の面目を世に知らしめることを目的に活動を開始した。 このころから落語が自作自演から過去の継承になりはじめる。
昭和8年(1932)に落語協会と落語芸術協会の 2団体が設立。
1940年代頃から古典落語という言葉が使われるようになる。
落語の歴史を概観したところで、各段階で出てきたいろいろな 落語をカテゴリー毎にいまの笑芸に引き合わせて考えてみよう。
職業的はなし家が時間を持たせるためには、単発の小咄ではなくて ある程度連続した小咄を連発する必要があったように思われる。
現代の落語家では林家三平(3)が得意とした技である。 立川談之助がよく演る漫談や楽屋話、 桂文福の一人バラエティ落語はこの範疇だろう。
他ジャンルでは、江戸むらさきのような ショートコント漫才や、 いつもここから、鉄拳のように 小ネタを積み重ねる笑芸がこれ相当するだろう。 今の漫才ではショートコントが隆盛であることを考えると、 現代落語もこの範疇をもっと研究しても良いように思える *3。 例えば上記他ジャンル芸人のように、 1つのテーマで小咄を編集すれば十分作品になると思われる。
歌舞伎の隆盛など、人々に物語を聞く楽しみが普及したため、 世話物が主流となったようである。 一説には芝居が高価になりすぎて庶民に手が届かなくなったので、 手軽で安価な再現芸が流行ったとも言われる。
前述したが本来サゲは不要であった。
現代の落語家では三遊亭円楽(5)など人情噺を主とする者は多く居る。 桂文治(10)の源平ひろいよみ、快楽亭ブラック(2)の怪獣忠臣蔵など もこの範疇だろう。
他ジャンルでは笑芸人としてはマルセ太郎、古館伊知郎などが これに相当する。一人芝居という意味ではイッセー尾形などと 類似しているとも言える。
ただ現代では、芝居や物語の手軽で安価な再現/翻案物としては、 TVが絶対的な地位を築いている上に、 映画やレンタルビデオより高い木戸錢を取る落語は、 手軽で安価とは言えなくなってしまっている。
一人芝居として追及する者は立川談志(5)が嚆矢だろう。
パロディ全盛(やおいに偏っているが)の同人誌の状況をみると、 前述の怪獣忠臣蔵のような翻案に止まらない換骨奪胎パロディには 十分需要があると考えられる。 著作権や版権が厳しい現代ではメジャー化するのは困難かもしれないが、 例えば道頓堀劇場で、小林ひとみがキャッツを換骨奪胎したストリップ劇を 上演して好評を博したのは記憶にあたらしい。
これについてここで改めて語る程、能力も紙幅もないが、 保守本流のようでおとし噺は19世紀の間はずっと前座噺として 軽んぜられ、 本格的な落語になったのは明治30年頃の新参者であることは あらためて指摘しておきたい。
以上のように落語の歴史を概観してみると、 落語が各時代に合わせて発展しているのが分かる。 また、各時代の落語の手法について、 現代の目で見てもまだまだ通じる部分が多いと思う。
現代的な笑芸と言われる漫才も、 以前は音曲芸の大和万歳、三河万歳、 定型的なかけあいの仁輪加等を基本にした伝統芸能的だったものが、 昭和10年代の横山エンタツ花菱アチャコのしゃべくり漫才から、 はじめて現代性を得たのである。
万歳からしゃべくり漫才に対応する、古典落語に対する今後の落語がどのような ものになるのかを、私には語る能力がないが、 落語の定義を狭く見すぎないかぎり、 発展の余地はまだまだ広いように思える。