モンティ=パイソンの「落ち」のないスケッチの考察

[Last up date: 06/01/13]
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モンティ=パイソンの「落ち」のないスケッチの考察

はじめに

モンティ=パイソンのスケッチの特徴の一つに、スケッチの落ち(punch line) を無くしたことが、よく挙げられる。パイソンズ自身も、インタビュー等で「落 ちを無くすことで、ありきたりでないものを作りたかった」と答えており、この ことはかなり意識的に行われていたようである。

そこでここでは、落ちとは何か、落ちを無くすことがどういう意味をもつの か、落ちを無くすことで出来あがったものがどういうものかを考察することで、 モンティ=パイソンの秘密の一部を解き明かしてみたいと思う。

落ちとは何か

落ちとは何か。結論から先に言うと「落ちとは観客を日常に戻す仕 掛」である。*1 物語の虚 構の世界から観客を日常に戻すことで観客の緊張を緩和し、話が落着くのである。 それは笑いを伴うことが多いが、必ずしも笑いである必要はない。以下、事例を 以ってこれを証す。

漫才の落ち

日本人に解りやすい例から始めよう。漫才の典型的な落ちは「もう、あんた とはやっとられんわ」や「いいかげんにしなさい」である。これは文字通り『虚 構の話はもうやめます/やめなさい』という意味で、それまでの会話を壊してし まう。ご丁寧にこのセリフの後に「やめさせてもらうわ」と念を押す場合も多い。

例えば、ハイヒールリンゴ・モモコが舞台で喧嘩を始めて、「もう、あんた とはやってられんわー」と絶叫したあと、仲良く「ありがとうございましたっ」 で締めると、観客は「あ、いまのは虚構やったんや」と素に戻ることができて笑 いが起き、そこで漫才を終らせることができる。

つまり漫才の落ちは、嘘の話(漫才)はこれで終りと漫才師が素に戻って表明 することで、観客を素(日常)に戻し漫才を終らせているのである。

落語のサゲ

落語のサゲは、地口などで今迄の話は嘘でしたよと噺を壊すことで、あるい は噺を自己完結させることなどで、観客の緊張を緩和し日常に返すのである。こ の件については、先行して桂枝雀の考察 *2等があるので詳しくは論じないが、 サゲの無い落語には 「竹の水仙」など実話噺が多いこと、「貧乏花見」などサゲなしで途中で終らせ る時の「わあわあ言っております」は、この混乱が映画「ビューティフルドリー マ*3」のように永遠に継続するのを 暗示していることを指摘しておく。

物語の終り

一般的にも、物語の結末は観客を日常に返す機能を持っている。 昔話が「王子様と結婚して幸せに暮しました」と日常生活に戻って終わるのも、 英雄物語で主人公が異世界から帰ってきて終るのもそうである。 映画のエピローグで主人公が日常生活に戻ったところが描かれるのは、 つけたしではなく、帰ってきたことをはっきり示すことで、 観客が日常に帰ってこられて話が落着くのである。

説話文学などで、話の最後が唐突にモノの起源の説明になっているものがある。 例えば、竹取物語(かぐや姫)*4は 最後が富士山の噴煙の起源の説明であり、浦島太郎*5 は浦島神社の起源の説明である。 これは、虚構の物語を最後に現実に接続することで、観客を現実に返しているのである。

異世界を扱うSFにもこのパターンは数多くある。 「猿の惑星」*6で、 どこか遠い星の話のはずが、ラストシーンで現実世界と繋がったあの衝撃は忘れられないものがある。

この帰ってきて終る感覚は、物語だけでなく音楽の世界にもある。 例えば、ジャズのスタンダードな構成は、最初のテーマの提示から、インプロ(即興)とテーマのリフレインを行ったり来たりして、 最後にテーマのリフレインに帰って終る。ついでに言えば、インプロは緊張感、リフレインはその緩和なので、この構成は 「緊張−緩和理論」にも通じるところがあるのである。

落ちのないスケッチ、落ちのない「フライングサーカス」

それでは、落ちを無くしたパイソンのスケッチはどうなったか。 あるいは、番組自体も、時間が余りましたエンディングのように、 落ちのないまま放送が途切れるように終っていることが非常に多い番組、フライングサーカスはどうなったか。 今までの論を裏返せば結論はおのずと出てくる。

落ちが無くなった結果、パイソンのスケッチ/番組は、観客を現実に返さなくなったのである。 いつまでも終らなくなったのである。 フライングサーカスのスケッチは、場面が変っても、画面以外のどこかで永遠に継続しているのである。 常に「わあわあいっております」状態なのである。 だから、しばしば、別の場面に以前のスケッチのキャラクターが侵蝕してくる。 例えばガス調理器残酷物語の行列がシリーウォークに、 シリーウオークが暴力兄弟に侵蝕している。 スペイン宗教裁判は自由に出現して他のスケッチを食ってしまう。 巨大はり鼠のように話を越えて別の話の侵蝕しているものまで出現する始末である。

不条理な状態がいつまでも続く永遠の祝祭/永遠の悪夢、フライングサーカス。 リンキングのギリアムのアニメが悪夢的なのは極めて象徴的であり、 それはそのまま「人生狂想曲」のテーマや「未来世紀ブラジル」の世界観へとつながっているように思える。

それに、よく見ればタイトルのサーカスが最初からこれ(永遠の祝祭)を宣言しているのだ。

ついでに

落ちの無い終り方というのは、パイソンのスケッチに限るわけではない。 物語や演劇では、オープンエンディングという現代的な手法として認知されている。 音楽では、先程と同じくジャズで例えるなら、フリージャズという、最初から行ったっきりで帰ってくることを考えない モダンなスタイルがある。

このような種々の分野の動向が互いにどう影響しあっていたのか、背景となる時代精神(パラダイム)は どのようなものであったのかを考察すると何か面白いモノが見えてきそうな気がする。


*1 桂米朝『落語と私』(文春文庫,文芸春秋社,1986)など
*2 例えば『落語DE枝雀』(ちくま文庫,筑摩書房,1993)
*3 押井守,うる星やつら2『ビューティフルドリーマ』,アニメ映画,1984
*4 阪倉篤義(編)『竹取物語』岩波文庫,岩波書店,1929
*5 島津久基(編)『お伽草子』岩波文庫,岩波書店,1936
*6 フランクリン=J=シャフナー,『猿の惑星』(原題"planet of apes"),映画,1968
(2002-8-10)


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