最近は漫才師とコント師の間の垣根が低くなって、漫才師がコントもやること が多くなった。ところでコントと漫才の違い、特に漫才の中にも芝居型式の表 現があるがそれとの違いは何か考えてみよう。
型式を比較すると、コントは演劇の文法で表現されるので舞台に立った時から 降りる時までずっと役を演じているが、漫才芝居は、最初は漫才師として話し、 芝居を演じ、最後はからなず漫才師に戻って芝居を壊し、終わる。
漫才芝居は、ゆえに、いつでも、途中でも素の語り手に戻ることができる。そ の変化や落差が面白みや可笑しみを産みだしている。落語家が噺の途中に素の 解説で笑かすみたいなもので、演出の方法論として理解するほうが妥当だろう。
漫才芝居の長所は、演技と説明の落差が出しやすいことである。判り難い状況 の芝居も、突込みで解説することで解らせて笑わさせることができる。「突込 みは愛だ/解説だ」といわれる所以である。
中川家の漫才芝居で、弟の一人芝居にそこに居るはずのない兄が出現してしま うネタがある。コントではどうにも処理しようが無い不条理劇になるところが、 漫才では素の漫才師にもどって兄を怒ればそれで笑いが生じる。
同様に、例えば最近流行している、コントで解説風の突込みを入れるパターン は、本当はコントではなくて漫才芝居の方が効果的な突込みになると思われる。 コントで突込みを入れると、その時点で突込んだ者は事件から離れた客観的な 地点へ引いてしまい当事者でなくなるのだ。漫才ならそこからまた用意ドンで やりなおせば良いが、芝居では無理に演技にもどらなければならなくなる。こ れは本当は演技力が要る仕事なのだ。
逆に漫才芝居の欠点としては、例えば「不条理な状況」に追い詰められても、 素に戻って逃げられることが挙げられる。こういう状況追い詰め型は、役を 「演じ続けなければならない」コントでなければ成立しない。
コント55 号の坂上二郎苛めが成り立つのもコントだからだ。
藤山寛美がアドリブで共演者を追い詰める。漫才芝居だったら「なにすんねん」 の一言で終わってしまう所を、共演者も芝居で返さなければならないので四苦 八苦する、それが面白い。共演者が素に戻ってしまって漫才的なオモシロさに なってしまう時もあるが、それはそれで楽しい。
モンティ=パイソンでは不条理な状況に追い詰められるコントが沢山あるが、 漫才芝居だと「そんなことあるかい」の一言で終わってしまって何も起きない のだ。
漫才芝居とコントはよく似ているが、使われる文法が違うのでネタによっては 上手く使い分けないといけないことを理解しなければならない。
例えばハイヒールの「ケンカねた」や、最近、耳なりが挑戦しているメタ漫才 ねたは、漫才と見せかけたコントにするという演出で効果を上げている。
漫才とコントに限らず、笑芸一般について、どんな文法で効果が出ているのか、 もっと掘り下げられてもいいと思われる。
(2002-8-16)